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開拓史(後編)

困難を極めた開墾・・・

木の伐採から開墾が始まる
木の伐採から開墾が始まる
開墾に励む村人
開墾に励む村人
うっそうと茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。
蚊やブヨなどに悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、北海道の早い冬が訪れていた。
 

子供の教育に熱意を注ぐ・・・

子供の教育には力を入れた
子供の教育には力を入れた
私立文武館
私立文武館
文武両道を尊ぶ十津川の人々。子供たちの教育には熱心であった。開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、徳富川を挟むで南北に1校ずつ小学校を建てた。その後通学の不便解消に学校数も増えていった。また、明治28年、母村にならい高等教育の場として私立文武館を建てた。
この、教育に対する熱意は、今日に至る新十津川の伝統となっている。
 

水田が広がりはじめる・・・

米作が始まる
米作が始まる
灌漑用の施設整備が行われる
灌漑用の施設整備が行われる
明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化する。夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、着実に農業基盤を固めていった。
明治35年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと。きわめて短期間での一級町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、入植者たちの不屈の取り組みの賜物であったといえる。
 

一大米作地帯へ発展し・・・

偶然、実った稲を見つける
偶然、実った稲を見つける
大正初期の橋本町の様子
大正初期の橋本町の様子
大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内で屈指の自治体へと成長していく。
水田の開墾に加えて「玉置坊主」という冷害に強い水稲品種を開発、これによって道内でも第一級の米作地帯となった。
石狩川の洪水に備えた治水事業もこの時期に取り組まれている。
 

そして現在へ・・・

現在へ
現在の街並み
現在の街並み
冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。戦争終結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を実現する。
しかし、昭和30年の1万6199人をピークに人口は減少傾向をたどり、他の多くの農山村と同じく過疎という新たな課題を抱えていく。
さまざまな時代の変化に揺れながらも、新十津川は未来に向かって着実に歩み続ける。
 
絵:井上正治さん

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電話:0125-76-2131
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